離婚が成立したのが2025年4月8日。
家庭裁判所に私は出向き、相手は、オンラインでの参加でした。
ずっと、子供たちの親権のことを決めるのにお世話になってきた調停委員の方もいて、裁判官が調停調書を読み上げました。
10分もなかったと思います。
これで終わったんだな、とホッとしました。
終わったと思って泣いたりするのかな、と自分で思いましたが、頭の中にあるのは、これからどうしていこうかな、といったことでした。
特に大きかったのは、これから「彼とだけ」やっていくのが怖いなという気持ちでした。
「彼とだけ」というのはどういう意味かというと、調停委員や弁護士という第三者がいなくなってしまうということです。
これまでと同様、子どもたちと彼の交流は、面会交流という形で、毎月4、5回ある週末のうち2回を継続して行っていく、と調停で決めました。
その日程変更や、持ち物等のやり取りがこれから直接始まる、ということが不安でなりませんでした。仕事があるから何曜日は無理だとか、持ち物はこれを用意して、など、彼からの言葉を受け取って、子供達に伝え、私が準備します。当然のこととは頭で分かっていても、怖くて心が嫌だと言っていました。
離婚が成立したあと、役所に行かなければならないことも多かったです。
離婚が成立してからのことは、これからゆっくり書いていこうと思います。
お金のこと、手続き、彼とのやりとり、そこからくる精神的なこと、時間、体力、仕事、、、など、シングルを実感していく日々の始まりでした。今、ようやくそのことを書くことができるようになってきたのかな、毎日24時間が足りなくて、毎日疲れてしんどくて、自分にとっては、大変な173日でした。
今、自分が頑張ったなと思うことが一つ。
離婚を切り出された時、パートで8万円ほどの給与でした。
正規職員になりませんかとお声をかけて頂き、この10月で1年が経とうとしています。そのお声かけが、どれほどありがたかったか、今でも鮮明に覚えています。でもそれよりも今思うのは、その選択肢を頂いた時に、自分にこなせるのかという不安がある中、やろうと決めてその波に乗った自分を褒めてあげたいなと思います。
離婚について、何も決まっておらず、先も見えない中、とにかく私の中にあったのは、まずは、生活の基盤を自分で作ることでした。自分が子どもたちを育てていくのに、自信がなかったのは、その点でした。
弱気になる時には、養育費やひとり親への国からの補助金に頼ることなど、頼りたいな、それでやっていけるような生活にしようかなと思う気持ちもありました。
インスタグラムやブログ、色々な選択肢が目に入り、夢のように思えて魅力的に見えました。それを学ぶための教材やセミナーに参加をするといったこともありました。でも、先ほど言ったような「波に乗った」だけではダメで、「継続する」その結果が給与なんだなと思いました。「波に乗り」「継続する」、その二つがあってようやく誰かからお金を頂けるようになるのかなあと感じました。
仕事に1日も休まずに行きました。
今では、毎月お給料をもらえるようになった、その一年後の未来を作ってくれた、一年前の自分に、よくやったね、ありがとう、と伝えたいです。
毎日、お仕事に行って、子どもたちのご飯を作り、お風呂に入る。
その毎日は、あっという間で。
子どもたちに寂しい思いをさせてないかな、自分に余裕がなくて見落としていることはないかな、離婚という出来事を意識し過ぎると、どれもが引け目を感じて、申し訳ないと子どもたちに思ってしまいます。
だからと言って、1人であれもこれもできない、という現実もこの数ヶ月でよく分かりました。
こうしてあげたいと思っても、仕事の時間がほとんどです。朝、学校に行くことを子どもたちが渋っても、それを受け止める選択肢は無く、「(お母ちゃんも)仕事いってくるし、がんばろ〜」と、あえて軽く返したりします。働いてなかったらな、こんなときも一緒にいてやれるのかな、と思う気持ちも湧いてくることがあります。でも、どれもこれもはしてあげられない、ということです。
どこまでしていれば、よくしてやれていて、どれができていなかったら、してやれていないということは一概には言えないでしょう。でも、心は、まだ、この生活で良かったんだって、思うには足りないです。
子どもたちに申し訳ないな、そう思う気持ちは、なくなりません。
また、一年後、よく頑張ったねと自分が思えるように、ブログを再開します。
再開は、何回目だろう。
かっこ悪いな。
スマートじゃないな。
自分でも何度辞めたんだろう、と笑えてきます。
でも、やりたい。
心細い誰かの気持ちに触れられるような記事がかけたら。
私も一緒だわ、この人のこれからがどうなるんだろう、って覗いて、励みにしてもらいたい。
続ける、ということを、また、やってみようかと思います。